京都府高青年沖縄平和ツアー2010--その④

 

Uさんのお話

 京都府高組合結成60周年記念青年沖縄平和ツアーの連載です。

 今回は、元ひめゆり学徒隊の生存者で、ひめゆり平和祈念資料館資料委員のUさんから12月26日にうかがったお話の概要です。

編集部でまとめましたので、文責は京都府高にあります。

■3月23日に沖縄戦が始まり、約2ヵ月後の5月25日まで動員が始まる。

■沖縄からの九州に疎開のため、学童を乗せた対馬丸はアメリカの潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没し、700人以上の児童の命が失われたが、沈んだことは口にしてはいけないといわれていた。また、沖縄には軽便鉄道が走っていて、通学にも使用していた。軍が使用することになり、爆破されたが、その事実も口外してはいけないということで、戦後になって知った。
■当時、兵力は日本が11万人、対する米軍は55万人いた。米軍に対抗するため、(旧制)中学2年以上の男子学生は「鉄血勤皇隊」や「鉄血通信隊」となった。女子学生は「看護見習」として、南風原(はえばる)の沖縄陸軍病院に動員された。ひめゆり学徒隊は先生も含めて240人だった。
 

 

■それぞれ30~40メートルの壕が40本あった。そこにコップ3~4個分の油を入れたランプがあるだけ。

■沖縄戦が終結したとき、の様子
・「病院」では、食べ物はピンポン球サイズの玄米おにぎりが1日一つ。3ヵ月過ぎると、シラミやウジが生きた人間につく。傷口にウジが侵入する。薬も不足し、片足を切ると他方がガス壊疽で膨れあがる。 

手術は麻酔薬なしでする。当然、悲鳴を上げるが、「貴様、それでも帝国軍人か」と責められる。

・患者にとって、「ご飯と水のどちらかを選べ」と言われたら、水がほしい。しかし、水を飲ませると死んでしまうので、与えない。すると、尿を飲んでしまう。そして、死んだら壕の外へ出し、そこに新しい病人を入れる。亡くなった方は爆撃で空いた穴に放り込む。「馴れ」によって、「かわいそう」とか、「怖い」という感情はなくなる。

・便を捨てに行くときがもっとも怖い。砲弾の音で危険を察知する。梅雨のときに、尿便を入れた桶を担いで壕から出た友だちは、転んで全身に尿便をかぶったが、そのことを知ったのも戦後随分立ってからだった。

・四人交替で一日2~3時間、立ったまま眠る。「反撃しない」のがその時の作戦。4月29日の天長節、5月27日にも反撃したと軍は発表したが、実際はしていなかった。

■沖縄戦の悲劇
・5月25日、南部の糸数に向けて撤退した。「病人は車で運ぶ」とのことで、歩ける者だけで15キロメートルを移動した。着いたら、「自分の軍に歩いて帰れ」という命令が出た。

・6月23日、参謀長が自決し、組織戦が終結した。首里城の地下から南部6ヵ所への移動が始まった。各地のガマに移動した軍人たちは、一般人を追い出す。自分たちは6つのガマの伝令が仕事になった。サトウキビなど食糧が不足する。

・6月14日から19日にかけてが大惨事だった。14日に第1外科壕が、そこから100メートル離れた第2外科壕が17日に、第3外科壕が18日に攻撃を受けた。

・食べ物探しと伝令のために第1外科壕から第3外科壕への1.2キロを移動していたが、砲弾の雨を受けた。爆風で目が飛び出そうになるので、伏せて三本の指で目を、残る指で耳を押さえた。

・爆弾が直撃し、腑(はらわた)が飛び出した同室の友人は、「お母さん」と叫び、「水がのみたい」という。水を飲ませると死んでしまうのでためらっていたが、ガーゼで水をしめらせると、乳房にしゃぶりつくように吸い付いたまま死んでしまった。

・色白の美人だった友人のみっちゃんは、頭中にシラミがわき、痩せ細っていた。嫌がるのを説得し髪を切ってあげて、国防色の三角巾で頭を隠していたが、10日経ってもなお痩せ細っていく。風邪をこじらせて既に病気だったのだ。食欲のない彼女に、「何だったら食べられる?」と聞くと、「サトウキビが食べたい」という。天気の良い月夜を待ってサトウキビを手に入れた。サトウキビを壕に持ち込むのは、蝿がたかり、そこにウジがわくので禁止されていた。すぐに食べられる分だけを用意して、入ろうとした壕の入口で髪留めのピンが落ちて、探そうとかがんだときに壕に爆弾が落ちた。壕の中では鍾乳石が飛び散り、10数人が亡くなったが、自分は生き残った。

・6月18日、解散命令が出た。(援軍はもう来ない。壕から出ていけ……)ということだと知るが、それを口にすることはできない。みんなの泣き声だけが聞こえる。それがいつか「ふるさと」の歌の合唱になった。「捕虜になるくらいなら死ね」というのが当時の常識だった。「早まったことはするな」という先生の声、「ごめんなさい、行って」と立てない友人を置いて、「ごめんなさい」と言いながら壕を出る。死の彷徨が始まる。そのまま亡くなるか、米軍に保護されて生き残った者もいる。

・6月19日以降に死んだ人が多い。南部には緑がまったくなくなるほどの爆撃が行われる。自決した者もいる。自分は壕の中で2人で、遺体とともに生き残っていた。通常なら20分で行けるところを4日かかって、兵隊さんに「いざというときには殺してもらう」ことを約束して、連れて行ってもらったが、2人だけ生き残った。何度も死に損なった。米兵は武器を持たない者や無抵抗の者には銃を向けず、手当をするという。罠だと思ったが、本当だった。死ねばよかった。友を見殺しにしたことを思うと、死ねばよかったと思う。ごめんなさいと思いながら生きてきた。戦を起こさないためには知ることから始めることだ。自分に何ができるかを追体験して、語り部になってほしい。自分も初めは話せなかったが……。

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