京都府高青年沖縄平和ツアー2010--その③

京都府高組合結成60周年記念 青年沖縄平和ツアーの連載です。今回は、参加者の感想です。

随時更新します。

 「重い事実」 

 この機会でもないと決して立ち入らないであろう場所に行けることに対する緊張や不安がありましたが、行ってみたいという興味があり、沖縄平和基地ツアーに参加しました。
 その中の一つである自然洞窟の糸数壕の中は真っ暗で、温度や湿気も関係もあり、入った瞬間に全身が重苦しく感じました。真っ暗で一歩一歩進むのも大変な中での当時の生活がどんなものなのか、実際にそこに足を踏み入れても安易に想像できるものではありませんでした。ひめゆり学徒隊のみなさんは爆撃音を聞きながら、殺されるかもしれないのを覚悟して外へ汚物を運搬し、休憩は立ったままとっていたという話など、当時の話を聞かせてもらった中に、最後まで諦めずに井戸の水を飲み、生き抜かれた方の話がありました。今は蛇口をひねれば簡単に出てくる水が、この時どれだけ必要とされていて、その水があればどれだけの命が助かったのかということを思うと、やり切れない気持ちになりました。
 ひめゆり学徒隊生存者の上原さんの話も聞かせてもらいました。普段の生活通りに学校へ行き、家族と会わないまま軍隊の食事の世話・死体の処理をすることになったこと、友達がすぐ横で亡くなっていくこと、そんな悲惨なことがあっていいのかと思うようなことばかりでした。死体を埋めることにも慣れていくという状況、これがまだ若い学生の時の体験だということがとても信じられない事実でした。
 沖縄、南国で暖かくて海がきれいで……とそんなイメージを払拭させるかのように、何を聞いても心が痛むような重い話ばかりでした。でもそれは事実であり、戦争を体験していない私はこのようなことをもっと知らないといけないなと強く感じました。それだけでなく、自分自身も両親からもらった命に感謝しながら、実際、戦跡に足を踏み入れたことで感じられたことや命の大切さ、尊さを大事な人たちに少しでも伝えていくことができたらと思いました。

 

 「自分自身の問題として

 今回の沖縄平和基地ツアー旅行で一番衝撃だったのは、沖縄で潜水士をしている友人が、国に雇われて、基地建設へ向けた辺野古の海水調査をしていたということだった。
  まさか、「米兵嫌い」の彼が、そんな仕事をしているとは想像できなかった。私の中では「エー! なんで?」という言葉しか出てこなかった。彼は3人の子持ちである。子供たちの未来のためにも、「平和な沖縄を残したい。基地なんかなくしてほしいし、米兵には出ていってほしい。そのためには自衛隊を増強させて、沖縄を守ってほしい」と感じているらしい。ただ、「米軍が撤退し、国の補助金がなくなれば、自分は潜水士の仕事の大半を失ってしまう。国の調査の目的は潜水士の俺には関係ない。そんなことより、今の暮らしを、家族を守らなければならない」私たちは時間が許す限り話し合ったが、結局お互いの意見を譲らず、話は平行線に終わってしまった。
  一方、現地でガイドをしてくださったI先生の「なぜ、こんなにも世論は基地反対へ傾きつつあるのに、沖縄から、基地反対の知事が誕生しないのか、それは、あなたたち内地の人たちのせいだ。これは沖縄の問題じゃなく、日本に住む人全員の問題なのに、自分の問題としてとらえられていない、あなたたちのせいだ。」という言葉も重たかった。
  自分では、基地問題に関心があるから、この沖縄旅行に参加したつもりだったが、実はまったく自分自身の問題としてとらえきれていないということに気づかされたことがショックだった。戦争にしても、基地問題にしても、実際、私が日々の暮らしでぶち当たるリアルな問題ではない。最終日に、冒頭の友人に会わなければ、基地依存の生活をリアルに感じることもなかっただろう。
  頭が混乱したまま帰宅して、ゆっくり反芻したときに、やはり基地依存しなくても生活していける基盤を沖縄に作ること、それが最重要課題ではないかと思った。そのためには、やっぱり遠回りやけど、政治を変えるしかないなぁ。

 

 「一人でもできること」

  特に印象深いのは、最初に行ったアブチラガマです。実際に何百人もが亡くなった真っ暗な自然洞窟です。
 入る前に一礼したあとで、湿気となんとも言えない空気感の中、懐中電灯の光をたよりに足場の悪い道を進んでいきました。懐中電灯を消すと、本当に何も見えず、しずくの滴る音だけが響いていました。こんな場所で、私より若い女学生が、食べ物も限られ、自分の命も危うい中で、他人のために働かなければならなかったなんて、どんな気持ちだったでしょう。
 見学を終え、真っ暗な中からやっと地上に出てこられた時、本当に光のありがたみを感じました。その地上も、ここで生活していた人にとったら命の危険にさらされる場所だったなんて…。
  こんな悲劇は絶対に繰り返してはいけないと思いました。誰だって自分の家族や大事な人たちが戦争で死ぬのは嫌です。戦争をしようとしている人たちだって、正義のためだと言いながら、他人には戦場へ行かせても、自分の身内は前線に立たせないでしょ?
  私一人では大きなことはできないけれど、世の中が友達や家族を大切にできる子どもであふれれば、自然と他人も大切にできる世の中になるのではないでしょうか。他人を大切にできる人は、戦争なんて肯定しないと思います。
 そんな子どもが育つよう、教育の場で私は頑張りたい。

 

 「想像することで近づく」

 今回、沖縄平和ツアーに参加して、個人の旅行では訪れなかったり、体験することができないような内容があり、参加することができてありがたく思います。
糸数壕アブチラガマでは、壕ガイドの方から、実際に戦時中この自然洞窟(ガマ)がどのようにして利用されてきたのかということや、そこで起きた真実などをうかがうことができました。600名以上の負傷兵を救護するために、軍医・看護婦とわずか16名のひめゆり学徒隊が、あの暗闇の中で戦争という極限状態で暮らしていたことを聞いたときは背筋が凍りました。今は何一つ音がしない壕だけれども、麻酔薬のない手術で苦しむ負傷兵や、自分の傷口から蛆が湧いて肉をむしばみ、それをひめゆり学徒隊に取り除いてほしいと叫ぶ声、当時の状態を想像しただけで戦争の恐ろしさを感じました。
 そんなひめゆり学徒隊の一人だったUさんから、直接、戦争当時の貴重なお話をお聴きする機会がありました。お話を聴いていると、自分がその場にいるかのような気持ちになり、命の尊さを身にしみて感じました。
 「敵も味方もない、みんな命は大切」と、平和祈念公園に設置された「平和の礎(いしじ)」には、国籍や軍人・民間人を問わず、沖縄戦で亡くなられたすべての人々の名が刻まれています。
 国内で唯一の地上戦の場となり、多くの尊い人命、財産を失った沖縄について知ることができ、本当に良かったと思います。このような過去の悲惨な戦争体験を風化させることなく、その教訓を後世に伝承していきたいと思います。

 

 「武力ではなく想像力を」

 今回の平和ツアーに参加して、沖縄に住む方が抱えていた哀しみを、そして今でもなお抱えている哀しみを、私は全然知らないと痛感しました。
 戦闘機が飛ぶ空も、戦車が通る道も、機関銃の音が聞こえる生活も、私にとっては非日常のことが、沖縄に住む方にとってはそれが日常でした。
 平和のこと、戦争のこと、あまりに大きくて、深くて何をどう考えたらいいのかわからないまま、私は私の日常に帰ってきました。
 沖縄に行ったからといって、私の日常が劇的に変わったわけではありません。けれど、沖縄のことを自分のまわりにいる子どもたちに伝えたいと思いました。
 知識としてではなく、沖縄の生の声を聴き、空気を感じたことで、少しの想像力がつきました。争いが起きたとき、誰がどのように感じるのか、哀しむのか。
 私が今回の旅行で一番印象に残った言葉は『武力ではなく想像力を』。ガマを訪れた子どもが書いた言葉です。小さなことかもしれませんが、人の痛みを自分の痛みとする想像力が、自分の行動を変える大きな力になることを学びました。
  同世代のみなさんと一緒に行けて、また丁寧なガイドをしていただけたことで、一人で行っていたら到底できなかったであろうことがたくさんできました。
 本当に中味のぎゅっと詰まった3日間となりました。

 

 「無知で、無関心だった」

 沖縄のイメージは燦々と輝く太陽と美しい海、南国の雰囲気と楽しく陽気な人々といったもので、実際そういった風景も目にしたのですが、その裏には大きな悲しみを抱えた深い歴史のツメ跡がありました。ほんの飛行機で数時間の距離のことなのに、私たちは沖縄の肝心なことに無関心で無知でした。
 そもそも今回の学習会に参加するきっかけとなったのが1万円で沖縄に行けるといったところでした。沖縄戦について学びたいという気持ちがあったのは事実ですが。けれども、今回の二日間は、私に沖縄に対する見方を大きく変えるものとなりました。一日目のガマや上原さんのお話、二日目の伊波先生のお話は、自分の無知を恥ずかしいと思うのに十分過ぎるぐらいの、深い話でした。自分の生活には直接関わりのないことだと思っていたことが大きな間違いで、日本の今後にも大きく関わる問題が山積みのまま残っていることを知りました。
 帰ってきてから沖縄戦関連の本を何冊か読みました。消化しきれずにいたものを自分なりに学び直したいと思ったのです。まだまだ勉強不足ではありますが、無関心からは一歩抜け出せたかなと思っています。

 

 「関心を持って、主体的に」

 今回の沖縄平和ツアーは、本当に行ってよかったです。得るものがたくさんあった旅でした。特に3つのことを紹介したいと思います。
 まず一つは、沖縄戦を学んだことです。ガマや平和祈念資料館、平和の礎、ひめゆり資料館を訪れ、そして元ひめゆり部隊の方の証言を聴きました。戦場を実際に体験し、大切な仲間を失い、悲しみを背負われた方の生の声というのは衝撃的で、話を聴き終えた後、われわれ青年教職員のみんなが沈黙になったことは印象的でした。
 二つめは、軍事基地の数々を目の当たりにしたことです。普天間基地や嘉手納基地などは、沖縄の人々が生活するすぐ隣にありました。バスで道を走っていると、窓からは至る所に基地を目にしました。高速道路を通っているときには「実弾演習中。流れ弾に注意」という看板を見かけました。沖縄の人々にとって、生活の安全や安定が保障されていない現実を知りました。日本の75%の基地が沖縄にあるという問題を考えさせられました。辺野古の海はとても美しく、静かでした。あの環境を壊すべきではないと思います。
 三つめは、この旅を通して教職員組合の青年仲間に出会えたことです。今までは自分の学校の中の分会でしか「組合」というものを感じることがなかったのですが、今回は同じ京都にこれだけの仲間がいるということを実感できました。旅の最後にみんなで感想を言い合ったことが忘れられません。ともに学び考え合うことができたと思います。それぞれの学校のことを語り合うこともできました。みなそれぞれの場で頑張っていることを知り、励まされました。
 この旅行を通じて、自分自身の認識も少し変化したように思います。改めて沖縄のこと、社会のことに関心を持って主体的に動かなければならないと自覚しました。歴史の事実を伝え、戦争・平和・民主主義をつなげて基地の問題を考えていかなければならないと思いました。教育に携わるものとして「教え子を再び戦場に送るな」と自らの胸に刻んで、仲間とともに日々の実践と学校、地域づくりに取り組んでいきたいです。

 

 「教育と、軍隊が人を死に追いやった事実をれない」

 沖縄にいくにあたって自分の中にはひとつの疑問がありました。それは「自決」についてです! 人はそんなに簡単に死を選べるものなのか? と思っていたからです。自分で見聞きし、感じることでその答えを見つけることができました。
 答えは『軍隊』でした! 神の子孫である天皇陛下がいればこの戦争には必ず勝利する。だから、天皇陛下のために死ねることが国民の幸せであるといった歪んだ教育がなされていたことは知っていましたが、どうしてもその教育だけでは、拭い去れない本能的な死を拒絶する心を、軍隊が強制的に死へとかりたてていた。その事実を知って納得しました! それと同時に、教育と恐怖による統制で、人を死においやることができてしまうという事実に恐怖を覚えました!
 着々と戦争へ加担する国づくりがされているように思えててならない近年、ともすると自分の子どもたちが、あの時の沖縄で起こったことと同じ目にあうかもしれない現実を、反戦の方向へしっかりと舵取りをしていくその重要性を感じました!

 

 「平和を知らない」子どもたちにしないために」

 僕は今回のツアーに参加するまで、沖縄に行ったことがありませんでした。ツアーでは平和学習や米軍基地を見るということで、「観光旅行では感じられない沖縄を感じられるのでは……」ということで応募しました。それまでの沖縄のイメージとしては、一年中暖かく、サンゴ礁があって海がきれいな観光地というイメージでした。
 沖縄に着いてすぐに行った糸数壕で、戦争で沖縄が受けた傷を目の当りにして、戦争の悲惨さ、むごさ、悲しさ、いろんな思いが頭の中を巡りました。
 そのほかにも、平和祈念館に展示されている写真や展示物、ひめゆり学徒隊で実際に看護にあたられた方の話など、当時の様子を見たり聞いたりする中で胸が苦しくなる思いを持ちました。
 沖縄を見て回る中で、戦争を経て沖縄に残された米軍基地は、そこに住む人たちにとってどんな意味があるのか? どういう存在としてそこに在るのか? それを考えさせられるツアーでもありました。飛び交う戦闘機や公道を走る戦車が日常生活の中にあるというのは、「外」から来た者にとっては異常な光景として映りました。そういう生活を「当たり前」とか「しょうがない」といった言葉で終わらせてはいけないと思いました。
 戦争が終わって65年経ち、近い将来、戦争を経験した方がいなくなり、戦争を伝えることがむずかしくなる中で、どのように戦争について次の世代に伝えていけるかが大きな課題だと思います。
ただ、「戦争を知らない」子どもたちよりも、「平和を知らない」子どもたちであってはならない、そう思います。平和であることの大切さは、僕たちにも伝えられるのではないかと思います。

 

 「沖縄、ありがとう」

 毎年楽しみにしている、伊勢丹の沖縄物産展。ちょうど大好きなラフテーを買ってうきうきしているところでB先生から電話があった。「青年部で沖縄に行かないか」「はい!行きます!」すぐに返事をした。
 私は小学生のころ『太陽の子』という本を読んで以来、沖縄にとても興味を持つようになった。暇さえあれば沖縄について、特に沖縄戦について調べたり考えるようになった。沖縄に行ってみたいという気持ちは強かった。しかし、「海のきれいなリゾートな沖縄」という気持ちだけで行ってはいけないような気がしていた。自分の納得のいくまで沖縄について考えてから行きたかった。
 沖縄へ行く前日、なかなか用意が進まない。体調がよくない私は、初めて会う人たちとの団体旅行、そして沖縄へ行くのが怖くてならなかった。涙が止まらなくなってしまった。私の沖縄へ対する思い、そして私の状態をとてもよく理解している妹は、一緒に用意を手伝ってくれ、当日伊丹まで行くことさえ怖くなった私の手を握って、「行けるところまでいってみよう」と一緒に電車に乗ってくれた。
 なんとか那覇へ着く。これからの3日間、不安と期待で胸が張り裂けそうだった。まずアブチラガマヘ。懐中電灯がなければ自分の手さえも見えない暗闇である。何百人という負傷兵の方を、たった16名の学生さんが看護にあたったという。汚物を外へ運び、悲鳴をあげる方々に水や食料を運び、手術の手伝いをする。立ったまま仮眠をとったそうだ。ガイドの方に「破傷風と脳症の人に分かれて看護された」と聞く。破傷風の方はだんだんと体が動かなくなり自分で水を飲む力もなくなり亡くなっていった。脳症の方は「頭がおかしくなって」「気が狂って」大きな声を出しながら亡くなっていったという。そして最後に「お父さん、お母さんからもらった命をどうか大切にしてほしい」と締めくくられた。私はその「気が狂って」という言葉と「命を大切に」という言葉が自分の中で処理できなかった。ガイドさんにとっては悪気があっての言葉ではないだろう。戦争の恐ろしさ、愚かさを伝えるための言葉であったのだろう。しかし私にとっては、戦争の恐ろしさを体験し、苦しい思いをした方々に「気が狂って」等の言葉は納得できなかった。今、戦争がなくても脳症で苦しんでいる方々はたくさんいる。また自分が自分のことを大切に思えない私にとって「命を大切に」という言葉がとても重く、その二つの自分の中で処理できない「言葉」でしんどくなってしまった。今の私には、人の言葉がこんなにも重いものなのかと、ひめゆりの学徒だった方のお話は聞くことができなかった。
 「平和の礎」では、私の伯母の知り合いが沖縄戦で亡くなっているので、名前を探した。遠い長野から沖縄へ来て亡くなった。どんなに自分の家族に会いたかったか、どんなに戦争が悲しいものかを彼の名前を見つけた時に感じた。また、ひめゆり祈念館では、「教員になりたい」という大きな夢を持ちながら、戦争に苦しめられ、大切な青春を奪われてしまった、私より若くして亡くなっていった方々一人ひとりの顔写真を見ながら、今、こうして教師として働いている私は何ができるのかと考えた。
 沖縄の青く美しい海を見ながら、もう二度と戦争を起こしてはならないと心から思う。そして何よりも、早く子どもたちに会いたい、あの子たちの笑顔を守らなければと強く感じた。私が勤務する学校は養護学校である。障害のある子どもたちに平和について、戦争について教えるのは難しい。では、子どもたちに何を伝えていかなければならないのか。それは、友だちや先生と遊ぶことが楽しいと感じられること、信頼できること、何かに挑戦する、頑張れる力をつけていくことではないだろうか。学校にいる間だけでなく、卒業しても人とかかわることが楽しいと思えること。それは社会の中で生きていく大切な力である。一瞬いっしゅん、一日いちにちを楽しく充実して過ごせること。それが子どもたちにとっての平和、当たり前のことなのだ。そして私たち教師は、その子どもたちの笑顔、当たり前の毎日を守らなければならない。子どもたちの想いをわかろうとし、一緒に共有し乗り越えていく支えになりたい。
 私にとって、沖縄へ行き平和とは何かを考えた時と、教師になりたいと思った時と、同じ気持ちであった。初心を忘れないための大切な旅行となった。

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